CHAPTER 3

 リオがいざなわれたのは、屋敷の奥に見えていた硝子の天蓋の下である。両開きの戸を開け放ち、目の前に広がった光景に、少年は息を呑む。
 そこは巨大な温室だった。鬱蒼と生い茂る草木が、どこか甘やかな青い匂いを発している。天蓋を透かして差し込む青白い月光のもとでも、それらがよく手入れされてみずみずしいことが知れた。さらさらと、水音が聞こえる。用水が引いてあるようだ。
 けれどまっさきにリオの目を引いたのは、中央に根を下ろす巨木である。大きく虚(うろ)がえぐれ枯れかけのそれは、けれどいまだ死を迎えてはいない。木の幹に、枝に、からみつく蔓植物があった。深い緑の葉は一枚一枚が小さく繊細な葉むらを作っており、レース模様のような白い花々から芳香がする。末端は細い蔓だが大元は太く、虚の底からのびている。おそらくはそこに核があるのだ
 彼は〈森の賢者〉と呼ばれるヒトだ。枯れかけの木に宿り、生きながらえさせ、ともに成長する。本体はひとところに根を下ろしているが、末端の器官を切り離すことで自由な行動が可能だ。高い知性を持ち、たいがいが温厚で思慮深い。
「やあ、はじめまして」
 温室に声が響いた。それは先ほど扉の隙間から聞こえてきた甘やかなテノールで、彼がご主人さまなのだと知る。
 うっすら笑みさえふくんだ声は、リオの癇にさわった。なにがはじめましてだ、あの一部始終を見ておいてどうしてそんなのんきな反応をする。リオは草を踏みご主人さまに歩みよりながら問うた。もうすでに醜態は晒している、なかば自棄で、唇から本音がもれた。
「……どうしてぼくを、呼ばなかったの」
「きみが私を求めなかったから」
 声にあわせてご主人さまは身じろぎをする。あまたある蔓のうちの数本がくねくねと動き、そのたびに葉ずれの音がする。
「待っていたんだ。きみのほうから来るのを」
 リオはかたちのいい眉をひそめた。どうしてそんなことをしたのか理解できなかったからだ。
 ご主人さまは蔓で、みずからの根元の地面を指し示す。根で丸く囲われたそこは、やわらかそうな草で覆われている。座るよう促されたが、リオは応じなかった。じっと、ご主人さまの蔓を見つめる。彼のいったいなにを考えているのだろう。
 けれどそれを問うより早く、思いもしない言葉が降った。
「私はきみの過去を知っているよ」
 ――過去。びくんと、リオの華奢な体が震える。その瞬間彼の脳裏を、あまりにみじめな記憶がよぎった。たちまち紅い頬から血の気が引き、菫青の目が翳る。
「きみはもともとフルオーダーメイドの〈アドニス〉だ。だが飼い主に捨てられた」
 告げられたのは、まったくの真実。
 つい先頃リオを苦しめた悪夢の雲が、ふたたび彼を覆おうとしていた。
 彼の紫紺がかった黒髪、菫青の宝石のごとき虹彩の色、つんと尖った鼻や小さな口、引き締まった腰周り……その肢体の有りようすべて、ひとりの男が望んだものだった。男はすでに二人〈アドニス〉を飼っており、自分好みの完璧な少年をもうひとり、そのコレクションに加えようとしたのだ。ご主人さまの要望にそぐう遺伝子を掛けあわせ、リオは試験管のなかで生を受けた。彼に愛されるために。けれど。
 彼の生来の不器用さは、ご主人さまの不興を買った。フルオーダーメイドということで期待が大きかったせいかもしれない。自分になつかない〈アドニス〉に日に日に不満は募っていった。
 そして迎えたその日のことを、たぶんリオは一生忘れない。与えられた部屋の扉が開いたかと思うと、そこに立っていたのは彼を商った舖の主だった。ああ、ぼくは捨てられるのだ、いちどきに彼はさとった。いつかそんな日が来る気がしていた。それでも悲しくないわけはなく、自分の内側がただただ空っぽな洞と化していくのを如実に感じとっていた。
「愛されるために生まれてきたのに、愛されなかった。気の毒に思うよ」
 いま、巨木の下にうつむく彼も、あの日と同じ思いを抱えている。うつろなおのれの内側に、甘やかなテノールはあまりに空虚に響いた。
「……ご主人さまは、捨てるためにぼくを買ったの?」
 苦しげな声を、彼は足もとに吐き出す。この目の前の巨木は、穏やかそうな顔をして、リオを痛めつけるために手元に呼び寄せたのかもしれない。
 だとしたら、あのバルコニーでやっぱり自分は死んでいればよかった。湖は深そうだったし、溺れてしまえばこんなみじめな思いをすることは、なかったのだ。
 唇をわななかせるリオに、ご主人さまは嘆息した。
「話をよくお聞き。私はきみが来るのを待っていた、と言っただろう」
 びくん、とリオの肩が跳ねる。優しげな呆れ声とともに、なにかしっとりした感触のものが頬にふれたのだった。見るとそれは、ご主人さまの蔓の一本である。
 やわらかな皮膜のうちに熱があるのを感じられる。それはごくごくほのかなものだったが、温もりに飢えたリオの胸を狂おしいまでに震わせた。――この熱を、全身で感じられたら。そんな心中を知っているかのようにすりすりと頬を撫でられ、あどけなさの残る頬に朱がのぼってゆく。
 そして、甘露のような言葉が耳に吹き込まれた。
「愛されたいと素直に口に出してごらん。私はきみが欲しがっただけ与えてあげる」
 芳香がリオの鼻腔を満たす。ざわざわと葉むらが蠢いて、リオの周りを白い花で取り囲んだのだ。細かな花々は見るまに蕾をほころばせ、甘いにおいでリオの脳髄までとろかした。酒に酔ったようにぼんやりする体の感覚のなか、鈍りもせずひときわ際立つのは、胸の奥の埋み火だ。それはかっと燃えさかり、リオの喉元にせり上がってくる。
 愛されたい。
 痛烈に思った。世にも美しい少年の双眸は、熱に凝って深い色をたたえている。目のふちがなまめかしく色づき、さながら虫を誘う花のような風情である。おのれを取り囲む主人に対し開いてゆこうとする体を、けれど彼は、意志の力でいましめた。頬にふれた蔓を手で引き剥がし、弱々しく首を振る。
「信じられない? ヒトの心が怖いかい?」
 声が畳み掛けてくる。図星だった。自己を否定されるような過去の記憶は、リオの心に深い傷痕を残していたのだ。しかしそれを知っていながら、ご主人さまはリオを甘やかしはしなかった。
「嘘だと断じて出ていきたいのならすきにおし。けれどまた舖に戻ってひとりぼっちになって、きみを買おうという者は現れるかな」
 口調はあくまで穏やかさを保っていたが、リオは首筋にぬるい刃を押し当てられたように感じた。ご主人さまの言うとおり舖に帰って、そして今度こそ買い手が現れなかったら、どうなるのだろう。舖の主は出戻ってきたリオの面倒をよく見てくれたほうだと思うが、二度目はどうか。売れもしない〈アドニス〉を養ったって、彼にはひとつも得にならない。処分。そんな二文字が脳裏に浮かんだ。
 だけどそんなことよりずっと恐ろしいのは、生涯おのれが誰にも必要とされないということだ。
 菫青(アイオライト)の目に、うっすらと涙が膜を張る。蜜のにおいもかぐわしい白い花々がさらに迫ってきて、彼のふくらかな頬に繊細な影を落とした。
「ほら。リオ」
 喉元の熱が彼の思考を炙り、熱い涙が頬をすべった。
「……い」
「はっきり、大きな声で言うんだよ」
 頬の上で、透明な雫が月光を受け、星屑のようにきらめいた。顎をつたい、星は足もとに落ちてゆく。
「ほしい。ぼくを愛して、ご主人さま」
 いじらしい懇願を、のびてきた無数の蔓がからめとった。

   
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