CHAPTER 2

 いつもきれいにしていたつもりだ。髪を整え、形よくリボンタイを結び、靴下は両方の高さを寸分狂わず揃えて。たしかに愛想よく微笑むのは苦手だったけれどいつもご主人さまのことを考えていた。思いの強さだけなら周囲の〈アドニス〉に負けなかったはずだ。
 けれどいつだって、夜の寝室に召されるのは金髪の彼や、褐色肌の彼だった。ご主人さまに上手に擦り寄り、甘え、ねだることのできる素直な少年たち。あんなふうにはとても振る舞えない、だから彼らの二の次に扱われるのはしかたがないと、諦めていた。
 けれどいつか、ご主人さまが自分を見てくれると思っていた。自分はあの方に愛されるために生まれ、こうして買われてきたのだから。
 ある日、主はみずからの〈アドニス〉たちに土産を買って帰った。遠い星の、極彩色の衣装。陽気そうな美貌の金髪彼や、妖艶な美貌の褐色肌の彼と比べて、自分にはとうてい似合わないものだと思った。けれど広げられた衣装の数は三着。きちんと自分のぶんも、あった。
 服をつまみあげると、歓喜に胸がつまった。忘れないでいてくれた。異星の地でご主人さまは自分のことを思い出してくれた。そう思うとものも言えなかった。
 金髪の彼と褐色肌の彼は、主に擦り寄っていって、とろけそうに甘い声でお礼を言っている。自分も後に続かなければ、と思った。けれど喉がつっかえて、うまく言葉が出てこない。どうすればこの喜びをご主人さまに伝えられるか、わからないのだ。
 服を握り締めて棒立ちになっていると、気づいたご主人さまがこちらに視線をくれる。目が合った。なにか言わなければ。なにか、言わなければ。そう躍起になって言葉を探すほどに、口がわなないた。
 いたたまれなくて、視線を下げてしまう。うつむいたまま、どうにか言った。ありがとうございます、と。
 ――そして、視界の外から響いた声に。
「かわいげのないやつだ」
 わあんと、耳鳴りがした。

「ッ――!」
 気がつけば、奇妙な文様の描かれた天井を見ている。またたくことすら忘れて荒い息を漏らすうち、だんだんと意識がはっきりしてくる。
 夢だ。認識して、こわばっていた肩から力が抜ける。
 汗だくだった。青白い首筋をつう、と汗が流れ落ち、不快さに肌が粟立つ。シャワーを浴び直そうか、とそっと寝台を降りた。
 そうして部屋を見回して。足が、止まった。
 ひとりで使うにはあまりに広い客室はいま、真夜中に沈んでいる。食事をとったテーブルも、椅子も、ソファもカーテンもなにもかもが他人の顔をして眠りにつき、自分を拒絶している。あまりに、静かだ。ぞっとするような静寂が耳から忍びこんで、体の内側を侵食する。
 ひとりぼっちだ。
 そう、強く感じた。おのれの心臓の鼓動だけが強く響いて、なにか大きな塊が喉元にせり上がってくる。白くなよやかな手が、左胸の上を這った。そこをぎゅうと握り締め、収まれ、収まれと念じるほどに、衝動が抑えがたくなってゆく。
 たまらなく、だれかに触れたかった。そして触れられたかった。
 客室には浴室も備えつけられている。けれどリオの足はそちらに向かず、別の方向へ動いた。重い扉を開け放ち、廊下へ出ていた。窓のない廊下は、客室よりなお暗い。質量すら感じるような闇に身をひたし、それでも彼は足を止めようとはしなかった。
 色濃い闇よりなお恐ろしいのだ。ひとりで、いることが。
 あてずっぽうに、リオはしんと冷えた夜の廊下を歩いた。客室から出たことがないうえに、屋敷は広い。すぐにどこを歩いているかわからなくなった。もう戻ることもできない。人の気配を求めて、彼はほうぼうの部屋を見て回る。
 どれほど歩いたころだろうか。長い廊下の先に、ほんのりとした明かりを見つけた。扉の隙間から、ごく細く光が漏れ出ているのだ。闇になれたリオの目には、それはまばゆくうつった。
 足音を忍ばせて近づき、耳をそばだてる。聞き覚えのある甲高い声がした。召使いだ。見知った者の存在を感じ取り、反射的にドアノブに手をかける。だが、開くことはできなかった。
 寝床を抜け出してきた理由を、どう説明したものだろうか。そう考えてしまったから。
 そして。
「おまえとこうしてゆっくり話すのも久しぶりだね」
 そんな声が、したから。
 落ち着いて甘やかなテノール。気品を感じさせる話し方。聞きなれない声だが、耳について離れない。
「もったいないお言葉です、旦那さま」
 召使いのそんな返答に、リオは目を瞠った。
 この扉の向こうに、ご主人さまが、いる。
 たちまち心臓が高鳴った。いまだ見ぬそのヒトのことを、この一週間リオは考えていたのだ。いったいどの星の人間で、どんな姿をしていて、そしてどんな思いで、リオを買ったのだろう。思わず、扉の隙間に目をこらしている。それはあまりに狭く、なかの様子はほとんど覗けない。それだけに、胸のなかで期待ばかりが育っていった。
 けれど。そんな期待の芽は、花と咲き誇る前に摘み取られる。
 もう少し扉を開けてみようか、と手を伸ばしたそのときだ。
「でもよろしかったんですか、旦那さま――」
 耳朶を打った召使の声に、手が止まった。
「――せっかく休暇を取られたのに」
 その瞬間耳鳴りが襲い、リオはいっさいの音を聞くことを忘れた。真白く染まった頭のなかに、幾度も、幾度も、その言葉がこだまする。
 休暇?
 仕事が忙しいと、言っていたのに。
 かつん、と指先が当たり、ドアが軋んだ。なかの話し声がやんで、気づかれたと認識すると同時に、リオは踵を返して走り出していた。
 このことが指す事実は、なにか。考えるまでもなく彼は理解してしまっていた。体を休め鋭気を養うひとときに召されなかった。みずからを癒すに必要ではないと断じられた、ということだ。
 なんて――なんて、馬鹿なんだろう! 駆けるリオの口もとに、淡い自嘲が浮かぶ。わかっていたのに。自分が愛されるに足る存在ではないと身をもって知っていたはずなのに、どうして、少しでも期待してしまったのだろう!
 ぐっと顔を上げると、突き当たりに月光の差し込む大窓が見えた。硝子戸を開け放ち、石造りのバルコニーに躍り出る。眼下には月光のきらめく湖。風が、少年の細い体をなぶった。
「リオさま!」
 振り返ると、硝子戸のところに召使いが立っている。リオは欄干に背中を預け、彼を見返した。
「どうして嘘をついていたの?」
 月光を背に受け、リオの菫青(アイオライト)の双眸は暗く翳っている。そこに渦巻く哀しげな色に、召使いは息を呑む。
「休暇中だというのにお目通りすらかなわなかったぼくを、哀れんだ……?」
 赤く色づいた目のふちを、透明な液体が濡らしている。リオがおもてを上げると、勢いあまってこぼれたそれは宝石のようにきらめいた。とめどなく溢れる涙をぬぐうこともせず、リオは身を翻した。
「なにを……!」
「こっ、こんな、辱めを受けるくらいならっ……もう死んでしまったほうがよっぽどいいっ……」
 苦しげに声を絞り出し、リオは欄干に乗り上げた。ぱたぱたと涙が落ち、風にあおられて何処かへ消える。たまらなくみじめで消えてしまいたかった。もっと早くこうしていればよかったとすら、思う。
 背後で慌てる召使いの声が遠い。見下ろした水面(みなも)は底知れぬ色をたたえて、リオを誘っている。
 まぶたを強く閉じ、リオは欄干を握り締める手から力を抜いた。じきに楽になれる。そう信じて、宙に身を踊らせた――。
 ひゅう、と耳もとで風鳴り。襲い来るであろう衝撃と冷たさに備えた。しかし。
 彼の体が落下することはなかった。バルコニーの下から恐るべき速さで伸び、欄干に巻きつき、宙を泳いだ影がある。それは難なくリオの小さな体を抱き止め、絡めとったのだ。
 異変に気づき、リオは恐る恐る目を開ける。
 おのれの胴体に巻きついているのは、なにがしかの蔓だった。あおく瑞々しく、丈夫な。
 呆然とするリオを、蔓はバルコニーに運んだ。召使いが駆け寄ってきて怪我はないかと問う。そして、言った。
「……旦那さまが、お呼びのようです」

   
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