下山しながら、大志はものを言わなかった。それでも綾瀬のとなりにはぴったり張り付いたままで、まるで無口なボディガードでも連れ歩いているようだ。麓にたどり着くまでの時間、綾瀬は落ち着かない時間を過ごした。
 だが、無事に下界に戻ってきたところで、今日の活動はまだ終わらない。
「さ、山登りの汗を流しましょう!」
 うきうきと言う篠谷に連れられて、一行は銭湯を訪れていた。
 男性は綾瀬と大志、ふたりである。
(気まずい。気まずすぎる)
 いますぐ逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、綾瀬は仮にも引率の教師である。全行程の終了を見届けるまでは、家に帰るわけにはいかない。
「おれは待合室で待ってるから」
 せめてものあがき、と大志だけを送り出そうとしたが、
「……昭久だって汗かいて気持ち悪いだろ」
 となかば強引に、脱衣所に連れ込まれてしまった。
 中途半端な時間であるせいか、脱衣所は閑散としている。否、ロッカーの使用状況を考えるに、おそらく男湯にはいま、だれも入っていない。大志とふたりきりだということだ。
 動揺する綾瀬をよそに、大志は荷物をおろし、豪快な脱ぎっぷりを披露する。あらわになった上半身から、思わず目を逸らしてしまった。
「意識してんの? いまさら」
 いっしょに風呂、何回も入ったじゃん。からかうような声がして、綾瀬はおのれのまるで生娘みたいな反応を恥じた。
「……っ、うるせえよ」
 そうだ、十も年下の餓鬼相手になにをおののいている。ただ風呂に入るだけじゃないか。意を決して、綾瀬も服を脱ぎ捨てた。
 綾瀬の思ったとおり、風呂場には人っ子ひとりいない。なるたけ大志を見ないように、さっさと洗い場に座る。後からやってきた大志は、当然のように隣に陣取ってきた。
 ちら、と横目で窺う。
 彼はまだ少し、怒っているように見えた。原因、なんてそんなの、綾瀬の不注意に決まっている。
 奇妙な確信があった。
「……大志。おまえがおれのことを好きなのって。十年前のあれが、原因だったりするのか」
 言いながらなんだかいたたまれなくて、綾瀬はタオルで石鹸を泡立てる。いつもの癖で右足から洗っていると、ふっと、呆れたような声がした。
「おれにとっては大事だったのに、今日の今日まで忘れてたでしょ」
「……いや、忘れてたわけじゃない、けど」
 あまり思い出すことをしていなかっただけだ。自分の右足の不自由さは、綾瀬にとってはもう自然なことだ。だからその原因になったあの事件も、意識にのぼることがなかった。
 そんな言いわけを、大志は笑う。
「ま、おれはあなたのそういうとこが好きなんだけどさ」
 直截な言葉に、かっと綾瀬の頬に朱がのぼる。と、ふいにざっと音がして、湯が跳ねた。大志が勢いよくシャワーの栓をひねったのだった。
 ざああ、という水音の向こうで、大志がシャワーヘッドを手にとり、綾瀬に差し向ける。勢いのいい湯を右足にかけられ、まといついていた泡が流れてゆく。
 次の瞬間、まるはだかになった足が大志によって持ち上げられた。足首をつかまれ、綾瀬は頼りないプラスチックの椅子の上で慌てる。どうにか体勢を立て直し、急になにをするんだと文句を言いかけて。
 言えなかった。
 目の前の甥は、シャワーヘッドを元に戻し、両手で綾瀬の足を支えた。自身は姿勢を低くして、まるで、姫に跪く騎士のような格好だ。
 そしてその目は、真摯に、綾瀬の右足――正確にいえば、くるぶしに向かっていた。
 熱い湯にさらされて、足指やかかとは赤く上気している。けれどその色よりなお赤く、痛々しく肌の上を走る傷口があった。皮膚がひきつれたような、事故の痕。それは足かせのように、くるぶしを侵食している。
「これはおれをかばってついた傷だろ」
 大志の指が、傷口を慰撫した。愛おしくてたまらない、というようにていねいになぞられ、敏感な皮膚ははっきりと反応を返す。
 椅子から滑り落ちそうで、綾瀬はろくに動けない。足をとらわれたまま、大志の言葉を聞いた。
「だからおれは、昭久を甘やかす義務がある。篠谷先輩よりも――ほかのだれよりも」
 ぐっと、大志の頭が沈む。なにを、と思ったときには、やわらかいものがくるぶしに触れていた。
 このやわらかさは、一度身をもって経験している。だから自分に対してごまかしようがなかった。
 大志はくるぶしにくちづけたのだ。
「ば、ばか! なにしてんだ、汚いだろっ……」
「おれはね、昭久。こんなことができるくらい本気」
 一瞬、綾瀬を見上げた目に、ただならないものを見つける。熱に浮かされた、愚かな男の情欲だ。とっさにだめだ、と思うが制止のしようもない。
 ぬるり、とくるぶしの傷口に、濡れたものが触れた。ほんの少しの表面のざらつきが、もとより敏感なその場所の触覚をなお尖らせてゆく。
「ば、ばか! 大志、なにしてるっ……」
「したいんだ。やらせてよ」
 そこ、足だぞ。半日歩き通しで、汗たくさんかいてて、まだちゃんと洗ってなくて、いや洗ってたっておっさんの足だ、汚いだろ。そんな思いがぐるぐると煮こごって、けっきょく綾瀬は、死にかけの魚のように口を開閉するだけだった。
 若い男はだんだんと暴走をはじめ、だんだんと舌の這う範囲を広げてゆく。つちふまずを舐められ、思わず声が漏れそうになる。声はかろうじて押しとどめたが、足の皮膚はこわばって、そこが弱いのだと相手に知らせてしまう。皮膚の奥をさぐるように、舌は何度も行き来した。
「た、大志っ……やめろ、汚い」
 年甲斐もなく、ほとんど涙目で懇願する。肌の上をはしるさざなみがどんどん大きくなって足をさかのぼってくる。
(こういうの、愛撫、っていうんだぞ……!)
 こんなことする意味が、大志にはわかっているのか。この行為のさきは、叔父と甥では、教師と生徒ではぜったいに分け行ってはならない領域に続いている。
「んっ――!」
 べろり、と指の股を、舌が割った。ひときわ大きな波が、綾瀬の下肢を飲み込もうとする。
(やば、このままじゃ、)
 とんでもないことになる。具体的に言えば公共の場にはとても似つかわしくないあられもない姿を晒すことになる。
 ぞわぞわと這いまわる感触になかばパニックになって、綾瀬はついに、大きく身じろいだ。その拍子に軽い椅子はタイルの上で滑り、
 どしん!
 あえなく綾瀬は尻餅をつく。
 ざああ、というシャワーの水音を背景に、ふたりは見つめ合った。大志は足をとらえたまま、綾瀬は尻餅をついたままでいたが、ふいに脱衣所のほうで、引き戸の開く音がする。客が来たのだ。
 大志は我に返ったようだった。ゆっくりと、右足を解放した。綾瀬もまた、なにごともなかったように椅子に戻る。
 敏感になりすぎた右足をあらためて擦り洗いする気にもなれず、綾瀬は途方にくれた。
(やぶへび、ってのはこういうのを言うんだな)

06

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