お昼を終え、一行は下りに入った。この山の見どころのひとつであるカタクリの群生地は、下りはじめて十分ほどのところにある。下り坂の片側が大きく拓けた谷になっており、可憐な花々で紫色に染まっていた。
「今年はちょっと開花が遅かったみたいで。見頃でしたね」
 歓声を上げて花に群がっていく部員の背中を見送りながら、篠谷は言う。たしかに、花はさかりを迎えているようだ。天に向かって反りかえった花の、朝焼け空のような紫色は、木々の作り出す陰のなかにも艶やかで美しい。
 部員に呼ばれて篠谷が去っていく。大志はやはり綾瀬のもとを離れず、しゃがみこんでカタクリの花を見つめている。
 少女たちの歓声は遠い。ここでなら、こちらの話も聞こえないだろう。そう考えながら大志の真剣な横顔を見ていたら、ふと、口から言葉がもれていた。
「なあ大志」
 呼びかけると、大志はすぐにこちらを向いた。まっすぐな視線に射抜かれて怖気付きそうになるが、綾瀬は踏みとどまった。
 得体のしれないものは、こわい。
 だがそれを放置していたって、なにも状況は変わらないのだ。
 こわばる唇をこじ開け、綾瀬は問うた。
「おまえどうして、おれのことが好きなんだ」
 どうしてわざわざ花の木に来た。篠谷に近づいて、この場にいる。弁当まで作ってきて、どうしてそこまでするんだ。どうして。
 どうして。
「覚えてない? この花」
 大志の答えは思いもしないものだった。この花、というのはカタクリのことだろう。要領を得ない顔をしている綾瀬に、どうしてか、大志はひどくいとおしげな顔を見せた。
「カタクリってね。白いのもあるんだ。見つけるといいことがある、なんて言ったりして」
「白いカタクリ……」
 見つけたものに幸運をもたらす、まぼろしの花。
 そのフレーズに、頭の奥底の記憶が呼び覚まされるようだった。脳裏に浮上してくる過去のできごとに気を取られるかたわら、大志は谷の花々にさっと視線をはしらせる。そして、ある一点に目をとめた。
「ほら、あそこ」
 指差したさき、切り株の陰に隠れるようにして、白い花弁のカタクリが一輪咲いていた。それを目にうつし、綾瀬はやっと、思い出す。
(……ああ、そうだ)
 綾瀬はこのカタクリの花を、見たことがある。
 おそらくは十年前の、あの日に。
 記憶に沈み込んだ一瞬、右足の古傷が痛んだ。体の均衡を崩し、ずるりと足が滑る。
 まずい、と思ったときには、もう遅い。体が谷の急斜面に向かってかしいでいた。
「っ――!」
 踏みとどまろうとするが、不自由な右足では覚束ない。ぎゅうと目を閉じた、そのときだった。
「昭久!」
 力強い手が、綾瀬の腕をつかんだ。強引に引き戻され、体を抱き取られる。ぬくもりが全身を包んだ。
 恐る恐る目を開ける。頭上に、切羽詰まった顔をした大志の顔が見えた。
 ――助かったのだ。じわじわと安堵が沸き上がってくる。そこに、
「危ないだろ!」
 ものすごい剣幕の叱責が、飛んだ。
 声は怒っているのに、大志はどこか泣きそうな顔をしている。綾瀬は気圧されると同時にぽかんとしてしまって、ただその顔を見返していた。
 騒ぎに気づいた篠谷が、こちらに駆けてくる。
「先生! 大丈夫ですか」
「……あ、ああ、大丈夫」
 ゆっくりと体を起こし、大志から離れる。大志はまだ、不安な子どものような顔をしていた。
「た、……尾上」
 思わず名前を呼びそうになったが、すんでのところで押しとどめる。
「大丈夫だから」
 綾瀬の言葉に、大志は怒ったような嘆息をひとつ漏らした。

 十年前。綾瀬は十七歳、大志は五歳だった。ちょうどこんな春の日、彼らは親戚一同連れだって、山登りに出かけた。晴穂はいつものように綾瀬に大志を任せて、やんちゃ盛りの長男と次男の世話に専念していた。
 その山にもカタクリが咲いていた。なだらかな斜面に紫の花が咲き誇る光景は、その山の見どころのひとつだった。
 情趣には疎い綾瀬も、みごとなもんだな、と感心してあたりを見回す。ところが傍らの大志は、といえば妙に落ち着かなげである。なにかを探しているようだ。
「どうした」
 問えば、低いところから幼げなどんぐり眼が、綾瀬を見上げた。
「白いのを、探してるんだ」
「白いの? カタクリか?」
 頷きが返る。聞けば、叔父――綾瀬の兄に、カタクリにはまれに白い花弁のものがあると教えられたのだそうだ。見つけたものには幸運が訪れる、まぼろしの花だ、と。
 この歳の子どもは兎角、まぼろしだとか伝説だとかいう言葉に弱い。大志もその例に漏れず、白いカタクリのことで頭の中がいっぱいなのだろう。せっかく紫色をした美しい花畑が眼前に広がっているのに、そわそわし通しである。
 しょうがないな、と綾瀬は息をつく。
「おれもいっしょに探してやるよ」
「いいの? 昭久」
 ぱあ、と大志の顔が輝く。あんまり眩しい笑顔なのでなんだかいたたまれず、綾瀬はぶっきらぼうに頷いた。
 そうしてふたりは、谷の探索をはじめる。いざ探して初めてみると綾瀬のほうも夢中になっていて、知らず大人たちからずいぶん距離が離れていた。しかし、ふたりは気づかない。木の陰、背の高い植物の陰を見て回る。
 どれほどのあいだ、そうしていただろうか。綾瀬の背後で歓声が上がった。
「みて、昭久!」
 振り向くと、大志はひときわ急な斜面のふちに立っている。そして身を乗り出して、斜面の下を指差しているのだ。
 おおかた、探し求めていたものを見つけたのだろう。けれどその姿勢はあまりに前のめりで危なっかしい。呆れ半分ほほえましさ半分、綾瀬はひとまず、落ち着けと声をかけようとする。
 そのとき、だった。
 目の前で、小さな体がぐらりと均衡を失った。横顔が、喜びから驚き、そして恐怖へと、色を変えてゆく。そんな様子が、妙にスローに、綾瀬の目にうつる。
「大志!」
 気がつけば、後先考えず飛び出していた。
 視界の端で、白い花弁の花が揺れた気がした。

 十年前のこの日、大志をかばって綾瀬は斜面を滑落した。
 幸いにして命に別状はなかったが、右足に負った怪我は深く、後遺症が残った。
 彼がいまだに足を引きずって歩くのは、この一件が原因なのだった。

05

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