「篠谷……おまえ尾上が来ること、知ってたな」
 日曜の朝。あらかじめ手配してあった中型バスに総勢十名ほどで乗り込みながら、綾瀬は篠谷に問うた。
「ごめんなさい。尾上くんに黙っててって言われちゃって」
 長い髪をポニーテールにまとめ、ジャージにリュックサック姿の篠谷は、いたずらっぽく舌を出した。
 つまりは篠谷は、大志に買収された後だったのだ。入学式の一件のあと綾瀬を問い詰めたりしなかったのは、大志から事情を聞いたからだったのだろう。大志が「篠谷先輩」だなんて気安い呼び方をしていたことにも納得がいく。
 大志は列の後ろで、先輩に囲まれて談笑している。こう人目のあるところで擦り寄ってくるほど浅慮ではなくて安心したが、目が合うとほほえまれた。
 目をそらしたが、頭の中では社会科準備室でのことを思い出している。十も年下の餓鬼にみすみす唇を奪われたのだと思うと、かあっと頭が熱を持つ。
 本気だ、と大志は言った。本気なのだろう。そうでなければ男で叔父で教師である相手にキスなんかできない。向う見ずかもしれないけれど、気持ちがあるのは本当だ。
(でも、だから、なんでだよ)
 結局のところそれがわからない。
「アヤちゃん、早く乗って」
 篠谷にせっつかれてバスに乗り込みながら、綾瀬は考えていた。本気だというが大志が自分に好意を持ったのはいつなのだろうか、と。
 大志は姉・晴穂の三男で、綾瀬が十二のときに生まれた子どもだ。姉には頭の上がらない綾瀬はしょっちゅう、遊びに付き合わされた。大志が留学してしまってからは会うことがなかったが、幼稚園から小学校にかけてはいろんなところに連れて行ったやったものである。近所の河原に公園から、動物園に水族館、遊園地まで。いっしょに風呂に入ったことだってあった。
 綾瀬自身、末っ子で子どもに耐性はなかったし、どちらかといえば無愛想なほうだという自負がある。姉の手前遊んでやっていたけれど、特別優しくしたかといえばそんなことはないと思う。
 なぜだかわからないし、聞くのが怖いとも思う。
 得体がしれないものはだれだって怖い。
 バスのシートにもたれ、流れてゆく景色を眺めながら、綾瀬は思う。しばらく会わないあいだに大志はまるで別人になっていた。背はのびたしおとなびた顔をするようになった、それに。
 ――おれを避けてた罰だよ。
 あのいたぶるようなほの暗い笑み。
 震えがきた。大志はもう、とっくに、知らない男になっているのかもしれない。そう考えるだけでなんだか落ち着かなかった。

 ほどなくして、一行は里山の登山口に到着した。篠谷によれば、小学生でも登れるゆるい道のりだから、綾瀬も心配する必要はないとのことだ。
「山頂でお昼を食べます。下りにカタクリの群生地があるのでそこで少し休憩。下山したら、銭湯寄って汗を流して解散ということで!」
 篠谷が前に立ち、一日のスケジュールを説明した。そののち二三の注意事項を確認して、出発する。
「アヤちゃん先生、足、辛くなったら言ってくださいね。ゆっくりで大丈夫なので」
 篠谷が振り返り、気遣わしげに言う。ありがとう、と答えようとしたとき、ふっと背後に影が差す。
「大丈夫だよ篠谷先輩。おれ、ちゃんと見てる」
 大志だ。さりげなく肩に触れられ、びくりと体が跳ねる。篠谷と大志はしばしのあいだ目線を交わしあい、なにごとか意思疎通をしたようだった。
「そう? じゃ、尾上くんにお任せしようかな」
 かくして、綾瀬のかたわらにはぴったりと大志が寄り添うことになる。
(篠谷……おまえ)
 恨むぞ、とじろりと睨みつけたが、篠谷は涼しい顔で受け流した。
 登っている最中、山岳部の少女たちはなんくれとなく大志に構いたがった。無理もない。女子校育ちの彼女らにとってこの場唯一の男子生徒はものめずらしかったし、大志は見目もいい。
 綾瀬は何度も、部の人間のほうへ行ってもいいと伝えたのだが、大志は引かなかった。そのうち女子生徒たちも慣れてしまって、山頂で昼食を摂るころには、綾瀬の世話をする大志を微笑ましく見守っていた。
 山頂の広場にシートを引き、車座になっておのおの持参した弁当を広げる。
「うわっ、アヤちゃんのお昼それ?」
 篠谷が綾瀬の手元を覗きこんでくる。早起きして弁当を作る気概も能力もないのでコンビニでおにぎりを買ってきたのだが、そんな人間は綾瀬ひとりだった。
 篠谷の声に、女子生徒が綾瀬に視線を注ぐ。あまりに昼食が貧相にうつったのだろう、かわいそう、あたしのおかず分けてあげるよ、という声が上がる。
 それを遮ったのは、なにげなく隣の席を確保している大志だった。
「先生。おれ弁当ふたつ持ってますけど、いっこ食う?」
 思いもしない申し出に、綾瀬は大志の顔を見る。
「……なんでふたつも、」
「ほら、育ち盛りだから」
 にっこりと、これは純然たる厚意ですという顔でほほえんでいる。だが綾瀬は知っていた。大志はいま、親元を離れてひとり暮らしをしているのだ。つまり、手元に差し出されている薄ピンクの包みは、大志の手作りだということだ。
 丁重に断ろうと思ったときには、女子生徒たちが騒然としていた。すごい、尾上くん優しい。そんな声にとりまかれて、受け取らざるを得ない空気になっていた。
 篠谷が感心したように言った。
「尾上くんって世話焼きなのね」
 弁当のおかずは、綾瀬の好きなものばかりだった。ひょっとしてこのことを見越していたのだろうか、とそのときになって気づく。
 居心地の悪い昼食だった。

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