それから二週間ほどが経った。綾瀬はどうしたものか悩んだ挙句、逃げを打った。
 担任はもっていないとはいえ、新学期だ、仕事が忙しいのは事実だった。なんくれとなく構ってこようとする大志をどうにかこうにか退け続け、学校では他人の顔をして過ごした。
(暇なのか、あいつは)
 おれなんかに構っていないで友達作れ――そう思うのだが、たまに教室の前を通りかかると、彼はいつだってほかの生徒の中心にいる。
 いい物件だと思うけどなあ、という晴穂の言葉は、決して親の欲目ではなかった。ついこの間まで中学生だったとは思えない体躯に、凛々しさと爽やかさを兼ね備えた顔だち。能天気そうな表情が玉に瑕だが、性根の明るさを表しているのだと取れば気にすることではない。一年前まで女子生徒しかいなかったこの場において、大志はことさら、いい意味で目立っていた。加えて海外留学していたおかげで英語も話せるし、運動神経もいいとなれば。
(あの位置にいるのは当然だな)
 でもだからこそ綾瀬は思うのだ。なぜそんないまをときめく少年が、自分に執着するのかがわからない。
 思いこそすれなんだか勇気が出なくて理由を聞けない綾瀬は、近頃はできるだけ職員室にいないようにしている。暇さえあれば大志が訪ねてくるからだ。そういうわけで、放課後、老齢の社会科教師から新しい資料集の運搬を買って出た綾瀬は――後悔していた。
 思いのほか、資料集は分厚く重い。それが一学年三クラスぶん、束になって紙に包んである。一階の教員玄関に届いたそれを三階の社会科準備室まで運べばいいのだが、いかんせん、今日は足の調子があまりよくない。包みを前に、ろくろく吟味せず頼みを引き受けた自分を呪っていると、声がかかった。
「あ、アヤちゃんいた!」
 見れば篠谷である。手にはなにやら書類を持っており、これから職員室を訪ねるつもりだったようだ。
「ちゃんと職員室にいてくださいよ。探すの苦労したんだから」
 篠谷はご立腹の様子で、綾瀬に書類を差し出した。
「ああ、すまん。遠足の申請書か」
「そうです。引率者のハンコが必要なので、お願いします」
 合宿というのは、山岳部の新入生歓迎遠足のことである。実際の部活動を体感してもらおうという建前で、日曜日、近所の里山に出かける恒例行事だった。本来ならば顧問が付き添うのだが、どうしても都合が悪いとかで綾瀬にお鉢が回ってきた。足が悪いのに山は、と辞退しようとしたのだが、ほかの教師で都合がつくものもおらず、活動自体もピクニック程度のものだからと押し切られてしまった。
 あとで捺しておくよ、と書類を受け取り、背広のポケットにしまう。篠谷はお願いしますよ、と頬をふくらませながら、綾瀬の足元の包みに気づいたようだった。
「それ、上まで? 手伝いましょうか」
「……篠谷はいいやつだよなあ」
 しみじみと呟く。入学式のときといい、つくづくよく気のつくやつだ。そして気のつくだけでなく、篠谷はあの日目撃したとんでもない場面をだれに言いふらすでもなく、普段通り綾瀬に接していた。
 いまさら気づいたんですか? と篠谷は笑い、三つある包みのうち二つを両手にぶら下げる。女子生徒のほうに多く持ってもらうのはどうかとも思ったが、山岳部で鍛えている彼女のほうが適役だろうと、綾瀬は甘えることにした。
 準備室の机の上に資料集を置き、練習があるから、と、すでにジャージの篠谷は去っていった。
 書類にハンコを押さねばらないし、綾瀬は一度職員室に戻ることにする。時計を見れば放課からもうずいぶん時間が経っていて、さすがに大志も帰っているだろうと思ったのだ。
 そうして、準備室の扉を開いたそのとき。
「昭久」
 彼は自身の予想が裏切られたことを知った。学校で綾瀬を“昭久”などと呼ぶ人間はたったひとりしかいない。準備室の前に立っているのは大志だった。
 見つかってしまった。居心地の悪さを押し殺し、綾瀬はつとめて憮然とした表情を作る。
「学校では先生って呼べって言ってんだろ」
「綾瀬先生? それも悪くないね。じゃあおれのことも尾上って呼んで?」
「敬語」
 ごっこ遊びを楽しむ子どものようだ。余裕綽々な態度が気に障り、一刻も早くその場を離れたかったけれど、大志は入口をふさぐように立ちはだかっているのだった。
「考えてくれた?」
 恐れていた問いが、投げかけられた。まっすぐな目をとても見ていられず、綾瀬は目を逸らした。上履きがきゅ、と鳴り、大志が距離を詰めてくる。問いに答えを返せないまま、綾瀬は後ずさる。
「……大志。本気、なのか」
「尾上、でしょ。おれは本気だよ、先生」
 そろりと、綾瀬は大志の表情を窺う。笑顔だった。けれどいつものへらへらした笑顔では、ない。準備室の暗がりのなかで見るからそう思うのか、穏やかさのなかにほの暗い宝石の光る笑みだ。一度見ると、恐れのために目を離せなくなる。
 どうして、と思う。どうしてこんな、いたぶるみたいな顔を。
 後ずさったぶんをさらに詰めながら、大志は引き戸を締めた。
「篠谷先輩と仲いいんだ」
「おまえこそ、いつのまに知り合ったんだ」
 綾瀬は右足を引きずりながら、ずりずりと後ろに下がる。けれど腰が机にぶつかって、体が傾ぐ。後ろ手をついて身を立て直したときには、大志が手をのばせば触れられる距離に肉薄していた。
 ごくなにげない動作で、大志は綾瀬の足の間に膝を入れる。それだけで机に縫いとめられたように動けなくなる。三年前とは様変わりした大志の顔を見上げ、綾瀬は背筋が震えるような感覚を味わった。準備室が埃っぽいせいなのか、花粉症のせいなのか、――それともまばたきを忘れていたせいなのか、目が潤んでくる。
 眠たげな目の、紅潮したふちのところに、透明な体液が盛り上がる。
「花粉症、この時期になると昔っからひどいよね」
 大志はふっと目を細めた。記憶しているよりもずっと無骨な指がのびてきて、こぼれそうな涙をぬぐわれる。その指の硬さに気を取られていた、刹那。
 吐息が唇をかすめた。なにかやわらかいものがそこにぴったりと重なっている。
 そう短くはない時間唇を触れ合わせ、最後に舌でひと舐めしてから、大志は離れていった。固まる綾瀬に知らしめるように――これはキスだ、と。
 ひどく満足気な顔をして、甥っ子が立っている。かあ、と顔が熱を持つ。
「なっ、な、なにを、おまえ」
「おれを避けてた罰だよ」
 罰を与えたのだとのたまうその姿は、少年期の子犬の大志とも、入学式のときに卒然と駆けてきた大型犬の大志とも重ならない。どちらかといえば、いま、綾瀬ができの悪い犬で、大志は飼い主だった。

 生意気だ生意気だ、そう憤りながら職員室に帰り、篠谷の頼みどおり書類にハンコを捺そうとして。
 綾瀬は顔を引きつらせた。書類の真ん中、参加者のリストのに見知った名を見つけたからだ。
 尾上大志。
 週末は心安らかにピクニック、とはいかないようだった。

03

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