帰宅して、綾瀬は真っ先に電話をかけた。相手は隣の県に住む姉・晴穂――大志の母親である。
「姉さん、なんで大志が花の木に来ること黙ってたんだよ」
 服も着替えないままベッドに腰掛け、開口一番、そう文句を言った。久々に電話をかけてきた弟に、晴穂は悪びれもせず答える。
「だってあんた聞かなかったじゃない」
「聞かなかったけど。でもふつう言うだろ」
 今日の今日まで気がつかなかった自分も迂闊だとは思うが、それにしたって、身内のいる学校を受験するというならその時点で一言あってもよさそうなものだ。けれど大志はなにも言わないまま花の木を受け、合格し、綾瀬の前に現れた。
 しょうがないじゃない、と、晴穂は言う。
「だって黙ってろって言われたのよ、あの子に」
「なんでまた」
「プロポーズにサプライズはつきものだからじゃない?」
 携帯電話を握る、綾瀬の手が固まった。
 なんで、どうしてそれを、知っている。
 自分の息子はどうやら男が好きらしい、なんて、母親がいちばん知りたくないことなんじゃないか? それなのに晴穂は、とくに気にした様子もなく電話口の向こうで話し続けている。
「我が子ながら義理堅く育ったものよねえ。花の木を受けるとき言われたのよ。合格したら昭久をくださいって」
 ふつうなら綾瀬の親に言うべき言葉だろうが、もうすでに死去している。加えて、さまざまな理由が重なって母親の代わりに赤子の綾瀬の面倒を見たのは、当時十六歳の晴穂なのだった。親代わりと言ってもいい。だから大志は義理を通している。通しているが、その前に本人の了承を得るべきではないのか。混乱と憤りの渦のなか、綾瀬はあっけらかんとした姉の声を聞く。
「いいじゃない。もらってもらいなさいな」
「んな簡単に言うなよ、姉さんの子だろ!?」
 子が子なら親も親だ。もとより破天荒で豪気な人間だとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。思わず声を荒らげている。
「その母親がいい、って言ってんのよ」
 思いのほか真剣な声が、綾瀬を諌めた。晴穂のこういう声には覚えがある。幼い時分よく聞いた、なにかを説いて聞かせるときの声だ。こうして語りかけられると、綾瀬は条件反射のように心中を吐露してしまう。
 ベッドのシーツを握り締め、喉奥を締め付ける葛藤のかけらを吐き出す。
「……だってあいつ、まだ十五歳で」
 おまけに男同士だし、叔父と甥の間柄だ。今日からは教師と生徒でもある。禁忌に禁忌をトッピングしたような状況で、どこをどう見ても結婚なんてできっこない。それなのに大志ときたら、あんなきらきらした目をして。抱きしめてきた腕が真摯だった。
「十五歳だってね、覚悟を決めてなにかを選ぶことはできるわよ。それで失敗したっていいじゃない、若いんだしどうとでもなるわ」
「……覚悟、って」
「それはわたしから話すことじゃないわね」
 直接大志に聞け、と、そういうことだろう。
「受け入れる受け入れないはあんたの自由だけど、あの子の話ちゃんと聞いてやんのよ」
 オムツまで変えてもらった相手だ。綾瀬はこの長姉に頭が上がらない。引っ掛かりを感じつつも承諾した。存外素直な弟に、姉は母親の態度を見せる。
「いい物件だと思うけどなあ。将来有望よ? 尽くすタイプだし、あんたみたいな甲斐性なしにはぴったり。どうせいい人もいないんだろうし」
 図星だった。綾瀬は生来ののんきさが災いしてか、恋人ができてもすぐに相手から別れを告げられてしまうのだった。甲斐性なしとの評はまったくもって正しく、現に一人暮らしをしている彼の部屋は男やもめに蛆が湧くとばかりにとっ散らかっている。こんな状態で女性を立てる気遣いなどできようはずもない。
 だからってそんな簡単に、弟分だと思ってきた甥を恋人にできるか。そう告げようとした矢先、電話口の向こうで晴穂を呼ぶ声がする。夫だろう。なにか急な用事らしく、彼女はさっさと電話を切ってしまった。
 そうして、ひとりきりの静寂が訪れる。
 まだ帰ってきたときの服装のままだ。とりあえず着替えようか、と立ち上がりながら、綾瀬は頭を抱えたかった。明日から、どんな顔をして学校に行けばいいのだろう。大志はあの場でこそすぐに引き下がったが、「考えておいてね」という呪いを残していったのだ。篠谷には一部始終を目撃されており、そのことに関しても頭が痛い。
 ――覚悟。
 いったい自分のなにが、大志にそんな覚悟をさせてしまったのだろう。綾瀬にはさっぱりわからなかった。
「っくしゅん!」
 くしゃみが出た。頭がぼんやりして皮膚の内側がざわざわと落ち着かないこの状態は、花粉症だけが理由でもないのかもしれない。

02

clap / index

   

inserted by FC2 system