うららかな春の陽の差し込む廊下に、ひとつ、景気のいいくしゃみが響き渡った。廊下をひょこひょこと歩きながら、綾瀬昭久は鼻をすする。花粉症の薬を今朝は飲み忘れて、彼はぼんやりする頭を持て余していた。どうして目に見えない花粉なんかにこうも振り回されなくてはならないのか、と、綾瀬は恨めしげに背広のポケットからティッシュを取り出す。鼻をかみながら見た外の風景はいたってのどかな春の朝といった風情で、自身の惨状との差に恨めしさがつのった。
 今日は入学式、それもこの花の木学園高校の歴史に残る特別な式だというのに、綾瀬は目を潤ませ、鼻を赤くして参列しなければならないだろう。ゆっくりと廊下を行きながら、綾瀬は金網越しに見える道路を歩く人々を眺める。見慣れたセーラー服の少女たちに混じって、ちらほらと、学ランに身を包んだ少年たちの姿があった。
 この私立高校で綾瀬が教職に就いてから五年。短くはない歴史を持つ女子校は今年から、男女共学になる。
 野郎が増えたところで嬉しくもなんともないと思っていた綾瀬だが、やはり、こうして実際に入学してくる男子生徒を見ていると感慨深い。校門から敷地内に入ってくる彼らをしばし見守っていたが、やがて前に向き直る。腕時計を見ればもう式まで時間がない。さっさと用事を済ませてしまわなければ、と足を速めた。
 年配の教師の多い学校だ。綾瀬は格段に若く、老齢の教師から細々とした雑用を言いつけられることも多い。今回は入学式の保護者席を急遽増やすことになって、綾瀬が倉庫に椅子を取りに行くよう言われたのだった。
 職員室脇の倉庫前までやってきて、鍵を使って扉を開ける。なかに入ろうとしたそのとき、背後から声がかかった。
「あ、アヤちゃん! サボり?」
 昨年度綾瀬が数学をもっていた、篠谷という生徒だった。
「ちげーよ。あとアヤちゃん言うな、綾瀬先生、だろ」
 ため息をついて応じる。ほかの教師と比べれば歳が近いせいか篠谷は妙に綾瀬のことを慕っていて、妙なあだ名まで付ける始末だった。感化されて彼女の周りの生徒たちまでその呼び名を採用し始めるのだからタチが悪い。いまや彼女らにとって綾瀬昭久は“綾瀬先生”ではなく“アヤちゃん”なのだ。
「おまえこそ、こんなところでなにしてる。在校生は入学式出る必要ないだろ」
「山岳部の関係でちょっと用事がありまして。先生は?」
「梨木先生が急に保護者席を増やしましょうって言い出してな。パイプ椅子を取りに来た」
 答えながら、そういえば篠谷は山岳部の部長になったのだったか、と考える。男子学生が入ってくることで演目にも幅が増えると喜んでいた覚えがあった。
 引き戸を開けると、なにげなく篠谷が綾瀬を追い越した。パイプ椅子の収まったキャスターつきのラックに手をかける。彼女がなにをしようとしているのかを悟り、綾瀬は素直に厚意に甘えた。
「悪いな」
 篠谷はただ微笑んで、綾瀬の代わりにラックを運び出す。綾瀬は廊下を歩き出す彼女の後ろをついて歩いた――うまく動かない右足を引きずりながら。
 綾瀬の右足はずいぶん前に怪我をして以来、この調子である。もとよりインドア派で飛んだり跳ねたり、走ったりできないことに倦んだことはさほどないし、周囲から差し向けられる気遣いをありがたく受け取るだけののんきさも持ち合わせている。不便は不便だが、もう十年も続いている生活だ。慣れきってしまった、というのが本音だった。
「アヤちゃん先生、これ、どこまで運びます?」
「体育館の横の入口。梨木先生が扉開けて待ってると思う」
 横を歩く篠谷の問いに答えながら、綾瀬は新入生たちを眺める。体育館と校舎のあいだの暗がりにさしかかっていた。昇降口の前には長机が出ていて、教師たちが受付に応じている。
(……そういえば。あいつも今年から高校だったか)
 外に出ていっそうぼんやりしてくる頭で、綾瀬は考えた。篠谷の「せんせー花粉症?」という問いすら遠くなるなかで、彼はひとりの少年のすがたを思い描いている。それこそこんな春のうららかさが似合うような、能天気そうな表情。胸のあたりまでしかない背丈、つないだ手の小ささ――。彼はいったいいまどうしているのだろう、と思ったところで。
「っくしゅん!」
「昭久!」
 くしゃみをした瞬間、なにかが聞こえた気がした。鼻をすすりながら顔を上げ、潤む視界のなかに、綾瀬は見つける。飼い主を見つけた犬のように走り寄ってくる、少年を。
 唐突に下の名で呼ばれ、綾瀬はもちろんかたわらの篠谷も、あっけにとられて少年を見た。おろしたての学生服に身をつつみ、にこにこと笑っている。新入生にしてはずいぶんと背が高かった。綾瀬もそう小柄なほうではないのに、見上げる高さに顔がある。
 綾瀬はしばし、一心に自分を見つめる奇異な生徒を見上げていた。やがて、花粉症ゆえの潤みもあって眠たげなその目がはっと見開かれた。
「……大志?」
 それはいままさに、脳裏に浮かべていた少年の名だった。年の離れた長姉の息子――つまりは綾瀬の甥、尾上(おのえ)大志である。彼とはもう三年、会っていなかった。海外留学していたので機会がなかったのだ。
 綾瀬にとっては短い三年は、少年をまったく違う男に変えていた。まず、背がのびた。体格もよくなっており、体の線の出にくい制服越しにも年の割に立派な体躯があるとわかる。能天気そうな表情は変わらずだが、顎にかけての線がひきしまり、ぐっと凛々しさが増していた。
 驚く綾瀬に、大志は得意げに笑ってみせる。
 そして言った。
「迎えにきたよ」
 綾瀬は首をかしげた。……迎えに、きた?
 翻弄されるばかりの十も歳上の男に、大志はなにかとても良いものを見るような目をした。たまらない、といったように、その手がのばされる。
 つかのま、綾瀬はなにが起こっているのか測り損ねていた。肩を包む手の感触、ぐい、と体が均衡を崩して倒れ込んださきにある温もり。歓喜を示して高鳴る鼓動を耳でじかに聞き取ると同時に、おのれを抱き取った男の体にはまだまだ幼さが残っていることを知る。
 抱きしめられている。気づいて慌てるより早く、ぎゅう、と体に回された腕に力がこもった。ひときわ大きくなる大志の鼓動の向こうに、綾瀬はありえないことばを聞く。
「昭久が好きです。おれと結婚を前提にお付き合いしてください」

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