08 : after taking a shower

 遠坂がバイトをしているのは、おれがいつもバイトをしている居酒屋のある駅前――あいつにとってもおれにとっても交通の便がいい、大きな駅の周辺だと聞いていた。土砂降りのなか息せききってロータリーに出ると、さいわい、すぐに遠坂が見つかった。透明なカッパを着込んで、横断歩道の向こうに立っている。
 信号が青に変わる。遠坂はこちらに歩いてくる途中でおれを見つけて、驚いた顔をした。
「バイト、もう終わりか」
「そ、そうだけど……仁奈川、なんで」
 なんで、なんて。おれにもよくわからない。だからただ黙っていた。遠坂はしばらく戸惑った顔をしていたけれど、やがて我に返り、おれがずぶ濡れなことに気づいたようだった。
「風邪ひいちゃうよ、とりあえず……お、おれんち」

 そんな申し出にすなおに従ったのは、風邪ひいちゃうよという遠坂の言葉通り、たしかに寒気を感じていたからだ。でもそれでも、たとえば銭湯寄って帰るとか(駅の近くにあるのを知っている)いくらでも方法はあったはずで。
 じゃあなんでかって聞かれたら、たぶん――おれを見た瞬間、遠坂が嬉しそうな顔をしたからだ。うぬぼれではないと思う。二月のつめたい雨のなかでひときわまばゆい喜色、おれはそれを見た気がしていた。
 そんなわけで、おれは遠坂の住む家までのこのことやってきた。驚いた。あんまり立派な住まいだったから。駅からほど近い場所に建つ白いマンション、その一室は、広々としたリビングと寝室らしき小部屋をひとつ備え、風呂とトイレは別になっていた。
 どう考えても大学生の下宿のレベルじゃない。目を見開くおれを、遠坂はつねにない強引さで有無を言わさず風呂場へ押し込んだ。洗い場も風呂桶もひろびろとしていた。
 熱い湯を浴び、用意してもらった服を着て出る。ごうんごうんと洗濯機の回る音がしている。おれが着ていた濡れた服を、遠坂が洗濯してくれているのだ。リビングに行って遠坂に声をかけると、入れ違いで風呂に行った。カッパを着ていたとはいえ、あいつはあいつで体が冷えている。
 おれはひとりリビングに残された。これもまたずいぶん広い。この部屋だけでおれの下宿の一.五倍はあるような気がする。ゆうに三人は座れる大きなソファ、ローテーブルの向こうに液晶テレビ。ソファに体を沈めて、ふうと息を吐いた。
 やがて背後でドアが開き、遠坂が入ってくる。濡れ髪にタオルを首にかけ、肌を上気させていた。
「ずいぶんいいとこ住んでんだな」
「……うん。お、おれはもっと狭いほうがよかったんだけど」
 遠坂はうつむき、小さな声で言う。親が、と聞こえた。こいつ、いいとこの坊ちゃんだったのか。知らなかった。
「あー……なにか、飲む? インスタントコーヒーか水くらいしかないけど……」
「いや、いいや」
 短く断ると、遠坂は手持ち無沙汰にキッチンをうろうろした後、ソファのほうにやってきた。おれからはずいぶん距離をあけて、はしっこのほうにちょこんと腰掛ける。家主のくせに。
 ちらりと、遠慮した視線が飛んできた。
「に、仁奈川……なんで来たの? 彼女とデートだったんじゃないの」
 なんで、か。なんでだったんだろうな。ほんとうならいまごろ彼女に追いついてご機嫌取りをしているところだったはずだ。それがどういうわけだか雨に濡れながら男のストーカーに会いに来て家にまで上がりこんでしまった。
 ただ、ほうっておけないと思った。……同情したんだと思う。振り向いてくれる希望を持てない相手をひたに見つめ続ける哀れな雛鳥に。
 気持ちに応えてやれるかどうかもわからないのに、そんな感情を抱くのは中途半端で、無責任だ。だけど止まらなかったし、
「……おまえは、苦しくねえの」
 そんなことを聞いてしまう。
 遠坂はとくに気を害した様子もなかった。ただ、問われるまま、うなずいた。
「いいんだ。おれはもう、仁奈川にいろんなものをいっぱいもらってるから」
 ……苦しい、と言われたほうが、まだよかった。そんなふうに謙虚なことを言われたら、気まずさがいや増す。いや。気まずさ、とも少しちがう。
 これは罪悪感だ。方法はおかしいにしろこれだけまっすぐに感情を向けてくる相手に、応えてやれないことへの。いろんなものをもらったと言うけれど、おれはなにも、与えた覚えがない。
 おれ、どうしたらいいんだろう。きっぱり振ってやったほうが、こいつのためなのかな。でも、そうしたらきっとこいつは傷つく。
「……仁奈川を、困らせてるよね、おれ」
 考えに沈むおれにそんな声がかかった。顔をを上げると、二人がけのソファのとなりに座った遠坂は弱々しい顔をしている。
 気づけば室内はもうずいぶん薄暗い。日はすっかり落ちてしまったようだ。薄闇のなかでぼんやりする遠坂の顔を、おれはじっとみつめた。
「遠坂。おれ、ずるい人間だからさ。おまえに優しくしたくなっちゃうんだ」
 恋人になってやれるかどうかの決心もつかないのに。
「どうしたらいい? って聞くのも、残酷だよな。わかってるんだけど、」
「仁奈川はやっぱり優しい」
 言葉は遮られ、手に体温がふれた。遠坂の手が、おれの手を抑えていた。それ以上言わなくていいと、甘やかすみたいに。
「もう充分だよ。充分だから、苦しまないで」
 そうして、遠坂は笑った。
 新鮮味すらあった。おれはたぶん、遠坂の笑顔をまともに見るのははじめてだった。だけどそのはじめてが、こんな、どうしょうもないものでいいはずがない。
 頼りない繊月のような笑み。わっと、自分のなかの熱がふくれあがっていった。
「だから……」
 ぽろん、とことばがこぼれた。一度口に出してしまったら、自分でもわけのわからないその熱は、行き場を失って外へ外へとあふれ出した。
「そういうこと言うから、どんどん、ほっとけなくなるんだろ!」
 おれは、自分の手にふれていた遠坂の手を引っつかんだ。とたん、目の前の男の全身が緊張する。
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