07 : What do you like about me?

 週末は彼女と会う約束をしていた。ひさびさのオフだったのでゆっくり休みたい気持ちもあったけれど、ここのところ構ってやれていなかったからしかたない。かねてから彼女にねだられていた、水族館に行く予定だった。
 どうやら彼女とのデートまでストーキングしていたらしい遠坂だが、今回は来ないことがあらかじめわかっている。と、いうのも某駅で交通量調査のバイトだからだそうだ。ついてこられちゃいたたまれないし落ち着かないので、予定を聞き出して知ったことだった。
 そんなこんなで迎えた当日、朝から天気が悪く、分厚い灰色の雲が空に蓋をしていた。空気もつめたく湿っており、雨が降りそうである。行き先が水族館でよかった、とほっと胸を撫で下ろす。
 ところが待ち合わせ場所に五分遅れてやってきた彼女は、なんでか暗い面持ちだった。水族館に入ってあれこれ見て回っても、その表情が晴れることはない。館内の青い光も相まって、沈鬱さが際立っている。
 ……とはいえ。
 おれにだって、他人――いかに恋人といえどもだ――のことを気にしている余裕がない日くらいあるわけで。
 ほんと、自分でもどうかと思うんだけど。いまおれの頭のなかは、目の前で暗い顔をしている彼女のことよりも、数日前おれを抱きしめて愛の言葉を囁き続けたストーカーのことで占められていた。
 まだあの夜の熱のなごりがある頭を、ぐわんぐわんと声がゆさぶる。――根がまっすぐなかんじが――すっと通る声が――白やブルーのシャツが似合ってて――。
 俺はもうずいぶん長いこと、いまいち自身のない人間をやっているのだ。こんな仕打ちを受けて平気な顔をしていろというほうが難しい。
「ねえ、葉ちゃん」
 ペンギンのプールの前で立ち止まり、見るともなしにやつらの泳ぎを見ていると、彼女がおれを呼んだ。
「あ、え? なに?」
 我ながら呆けた返事だ。バイト先でこんな声を上げようもんなら、即刻店長の檄が飛んでいるだろう。
「あたしのこと……好き?」
 彼女はくるくるした髪を揺らし、おれを見つめた。なにか思いつめたような顔である。
「どうしたんだよ、いったい」
「……さいきん、葉くんあたしと遊んでくれなかったじゃない」
 そりゃ、バイトが忙しかったからだ。空いてる日は空いてる日で、あっちが成人式の準備だなんだですれ違っていた。
 だけど彼女はどうにも不安げな顔をしている。……いや、というより、悲劇のヒロインみたいな顔。
 たぶんこう聞きたいのだろう。さいきん会ってくれなかったの、あたしのこと嫌いになったからじゃない? 違うわよね?
 暗い表情の原因はこれか。これまでも、浮かない顔をしていると思ったら気持ちを疑われていたことはあった。うっすらとうんざりした気持ちがわくが、とりあえずなだめようとした矢先、なおも問いかけられる。
「ねえ、葉くんはあたしのどこが好き?」
 ……似たような台詞を、さいきん聞いた。というか、言った。おれが。おかげで一瞬、ぽかんとしてしまう。そんな反応がお気に召さなかったらしく、彼女はまなじりを吊り上げる。
「ねえ。あたしのこと嫌いなの?」
 ああ、早く答えなきゃ。きっと彼女は怒り出す、悪けりゃ泣き出す。そうわかっているのに、唇は動かない。かわりに頭の中であいつの言葉がふくらんで、彼女への気遣いを押しやっていく。
 性根がまっすぐなかんじがして好き。
 すっと通る声が好き。
 シャツにアイロンかけてるとこ。白や薄いブルーのが似合ってて好き。
 好き、好き、好き。
 ……よくぞまあ、ここまで並べ立てたものだ。 
 視線を宙に遊ばせる。休日の水族館はカップルやら家族連れやらでごった返している。ペンギンプールのあるデッキに向かって大きく付き出したオープンテラス。上からペンギンたちを観察できるとあって、そこにも人があふれていた。
 にぎやかな、休日。恋人や家族と笑いあう、幸せな光景。
 一方……あいつはいまごろ、この寒空の下でひとりっきりで、カウンターカチカチ鳴らしているわけか。
 遠坂は、苦しくないんだろうか。
 ふと、そんなことを思う。
 ただ見守るだけでいいと決め込んで、恋人とのデートまで見せつけられて。いざ告白しても付き合ってくれなんて言わないからと宣言して。
 おれに好きだ好きだと言うばかりで、なにも返ってこなくて、苦しくならないんだろうか。
「なんとか言ってよ!」
 視界の外から金切り声がする。だけどふしぎなほどに、心が動かなかった。
 ばしん、とひとつ、体をかばんで殴られた。
「っ?! もう、別れる!」
 追いかけたらまだ間に合うな、と思いながら、おれは屋内に駆けてゆく彼女の背中をみていた。さすがに、周囲の人の視線が痛い。恥かかせちゃって悪いな、と思った。
 だけど。
 ぱたりと音をたてて、木材のしかれた床にしずくが落ちる。はじめの一滴を追うように、次から次へ。
 あっというまに、雨降りになる。
 濡れて色を濃くしていく床を蹴り、屋内に殺到する人混みをかきわけて、おれは走り出した。
 この雨にひとり濡れている遠坂に、会いたいと思った。
 それはもしかしたら、雨の中に弱った雛一羽ほうっておく罪悪感と大差ない気持ちかもしれない。
 それでも、思ったのだ。こんなところにいる場合じゃない、と。
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