06 : my favorite things

 裏口から外に出ると、あたりはもうすっかり暗くなっていた。歩きだそうとしたら、ぐう、と腹が鳴る。落ち込んだ気持ちがさらに加速しそうだ。おれは道のまんなかで、方向転換する。どこかでうまいものでも食べて帰ろうと思ったのだ。
 すると振り返った道ばたで、うごめく影を見つける。必死で電柱の陰に隠れようとしている長身。
「……遠坂」
 尾けていたら突然おれが振り向いたので、身を隠すのが追いつかなかったのだろう。絶賛ストーカー中の美青年がそこにいた。
「あ……えっと。早かった、ね」
 弱々しい笑顔を見せ、やつは言った、なるほどシフトをきっちり把握しているわけだ。
 気遣わしげな視線が、ちらりちらりと向けられている。おれは気にせず歩きだしたが、遠坂は追ってくる。
「な、なにかあった?」
 やつにしては突っ込んだ質問だった。
「……いや。ちょっと考え事してたら、皿割っただけだよ。おれが悪い」
 そう告げると、三歩後ろを歩く遠坂がなにやら慌てだした気配がある。首をめぐらせ確認すると、なにか青い顔をしていた。
「なんだよ」
「……おれが妙なこと、言ったせい?」
 ともすれば自意識過剰な発言だが、この場にあっては正解だった。おれはとっさに返事ができない。沈黙で肯定をさとったのだろう、遠坂は顔をうつむけた。
「おれ……やっぱり仁奈川に、迷惑かけてるよね」
 ストーカーの分際でいまさらなにを言っているのか。それがわかっているんだったら、自制すればよいものを。
 内心そう思ったけれど、遠坂はみていて哀れなほど消沈している。まるで捨て犬みたい、いまにもきゅうきゅう泣き出しそうな風情すらあった。大の男がそんな様子をみせているので、おれは少しばかり動揺した。
「べつに、皿割ったのはおれのせいだよ、おまえのせいでは、ない……おまえ告白しただけだし」
 思わずそんなフォローを入れている。遠坂からしても意外だったのか、彼はいくぶん顔を仰向けてこっちを見る。眉は下がったままの、いまにも泣き出しそうな表情のなかに、驚きの色があった。
 おれはなんだかいたたまれなくなって立ち止まる。遠坂も立ち止まったから、人の少ない往来のまんなかで、ふたりきり。
 二月の夜はひどく冷える。おれはコートのポケットに手を突っ込み、彼をみないままに言った。
「遠坂はさあ。いったいおれの、なにがいいわけ」
 まるでうっとおしい女の言い分だ。そう思うのと裏腹に、一度口にしてしまうとその疑問はどんどんふくれて大きくなった。
 どうして。
 どうして、おれはこんなつまらない人間が好きなんだ。そこらへんに転げてる十把一絡げの大学生を、このクソ寒いのに律儀に追い回すほど好きになったのはなんでだ。
「え……だからそれは、三輪から」
「それ、小学生のときの話だろ。いまのおれはどうなの。……おれ、こんななのに。おまえに好き好き言われたって、みじめなだけなんだよ」
 刷り込みなんだろう?
 たまたまいじめっ子の三輪から助けてくれたから、なんとなく、とてもいい人間なような気がしてるだけなんだろう。
 それならそうと早く自覚して、おれの前から消えてくれ。おまえに好きって言われるだけ、おれは自分の卑小さに耐えられなくなる。
 ――けれど、遠坂はなおも告げた。
「おれ……仁奈川のそういうとこが好き」
 けんか売ってんのか。かあっと頬に血がのぼり、遠坂を睨めつけようとして――できなかった。
 ぬくもりが体を包む。いつか感じたのとおなじぬくもり、いつか嗅いだのとおなじ匂い。遠坂がまた、成人式の晩のようにおれのことを抱きしめていた。
「おれが動揺させたせいで失敗して落ち込んでるのに、おれを責めないところが好き。根がまっすぐなかんじがして」
 切羽詰まった声が耳元をかすめた。臆面なく好きだ言われて、なおのことくすぐったい。反射的に抵抗しかけたが遠坂は離してくれなかった。むしろさらに腕に力を込めて、耳元に口を寄せる。
「バイトしてるときのすっと通る声が、気持ちよくて好きだ。……めんどくさがらないでシャツにアイロンかけて着てるとこ。白とか薄いブルーのとか、ぱりっとしててよく似合う」
 堰を切ったように言葉が溢れて止まらない。息継ぎをするのももどかしいというように、舌の動きがのろくさくてしょうがないというように、遠坂は言葉を連ねていく。
「彼女とデートしてるとき、歩調を合わせてあげるところ。車道側を歩いてあげるところ。でもそういう気遣いが押し付けがましくないところ」
 それから、それから。
 遠坂の声が、熱が、思いが。この男のすべてがいっしんにおれに向かってくる。――奔流だ。気を抜いたら押し流されて、もう戻れない。
 ふっと、腕の力がゆるくなる。少し高いところから、遠坂が見下ろしてきた。
 潤んだ目が、熱い。荒い息が大気の冷たさに凝って、可視化する。
「まだ足りない? 何個挙げたらわかってくれるかな……仁奈川がかっこいいってこと」
 これがおれに恋している男の目なのかと思ったらたまらなくて、 息も絶え絶えに、もう十分だと答えるしかなかった。
 褒め殺しの真髄を見た気分だった。危害を加えられたわけじゃないのに、むしろ逆なのに、もうやめてくれ! という思いでいっぱいになって、すぐにでもそこから逃げ出したかった。酒をしこたま飲んだときみたいに頭がふわふわして、うっすらと高揚をおぼえているのを、認めたくなかった。
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