09 : the great find

「もっと自分勝手に欲しがってくれれば、おれだって拒否できるんだ。なのにおまえは、そうやって控えめなことばっかり言うから!」
 感情のままに手を引き寄せ、肩をつかむ。遠坂は焦って身を引いた。大きく体がかしいでいく。それを追うようにして、おれの体も。
 気がつけばふたり、ソファの上に倒れ込んでいた。おれの体は遠坂を下敷きにしていて、顔が近い。間近で遠坂の目がみるみる見開かれていく。応じて顔も赤くなった。服越しにふれる体温が燃え盛るように高くなっていった。
 呼気が交じり合っては消える、そんな沈黙がどれほど流れただろう。
 身じろぎして、下肢がこすれあう。かすかな衣擦れの音が、耳奥でざわついた。おれは動きをとめて、じっと遠坂を見下ろす。
 ふれあったそこ、下肢の一点は、たしかな反応を見せていた。一度その熱さを認識すると、ぐんぐんきざして存在感を増してくる。
「――遠坂」
 おれが確信をもって呼びかけると、遠坂は恥じ入ったように目をうるませて、視線を逸らした。ごめん、と、わななく唇が吐息をこぼす。
「ごめん、気持ち悪くて……ほっといてくれれば収まるから……」
 そうして遠坂は、おれの体の下から抜け出そうとした。けれどおれは、気づけば自分でも不可解な言葉を吐いている。
「ほんとにそれでいいのか」
 ――大丈夫、付き合ってくれなんて言わないから……だけど仁奈川のこと、これからも見守らせてほしい。
 成人式の夜、おれに告白した遠坂はそう言った。
 だけどそれは、ほんとうに、本心からの望みだろうか。あれだけ執念深く好きだと告げた人間が、ほんとうに、見守るだけでいいと思えるのだろうか。真の願望は叶いはしないと諦めて、予防線を張った結果じゃないのだろうか。
 もっとちゃんと、欲しがってみろ。
 長い前髪で目元を覆い隠し、遠坂は口元を引き結んだ。息を止めては、なにか言おうと口をわななかせる。
 そしてようやく、絞り出した。
「……よく、ない……」
 ぐっと下から力がかかる。遠坂はおれを押し戻すようにして上体を起こすと、そのまま肩を押した。次の瞬間には、おれはぽすんとソファの座面に後頭部をあずけている。
 遠坂を見上げた。ほとんど泣きそうに目に涙の膜を張らせていて、暗闇のなかでも光ってみえた。熱いまなざしがいっしんにおれにふりそそいで、くる。なまじ顔がきれいなもんだから、男のおれでもどきっとくる。
 かれは苦しげに言った。
「ごめん。……ごめんね、仁奈川。ちょっとだけ」
 じっとしているだけでいいから。
 遠坂はそう言って、おれの首筋に顔を埋めた。鼻先で肌をさぐられると、くすぐったくて身がよじれる。
「いいにおいする」
 甘い声が耳元をかすめる。どきんと心臓が跳ねた。
「風呂入った、ばっかりだから……」
「うん。おなじ、においだね」
 遠坂はあの形のいい鼻をぐいぐいと首に押しつける。服のえりをぐいっと引っ張って、あらわになった肩口のほうまで嗅いだ。遠坂の服はおれには少し大きいので、くつろげるのはたやすいようだった。
「……っは、」
 息が荒くなってきて、思いの深さを知らしめられる。遠坂はただ首筋に顔をうずめ、熱く燃えるてのひらでおれの顔や首、肩をなぜるだけだった。それ以上は求めてこない。
 ただ、おれの耳元にはぐちゅぐちゅという水音がとどいている。遠坂はいつのまにか寝間着のゆるいズボンを膝のあたりまでずり下げて、素肌をさらしていた。おれにふれていないほうの手は、みずからの下肢にのびている。
「仁奈川、仁奈川……」
 自分を慰めながら、遠坂はしきりにおれのことを呼ぶ。呼ばれるたび、甘怠い感覚を耳から流し込まれるようだった。手がふれている肌が、焼けてしまいそうだった。
「……あっ、仁奈川、すき、すきだよ……好きだっ……」
 遠坂がのぼりつめるのに、さほど時間はかからなかった。呼気が湿って、のしかかってきている体がときおり耐えかねたように跳ねる。背が丸まって、伏せた長いまつげが震えている。
 名前を呼ばれて思い知る。
 いまこのうつくしい男はおれに欲情している。おれのせいで、こんなになってしまっている。
 ……頭が茹で上がりそうだった。
「にながわ……?」
 遠坂がふるふるとまぶたを押し上げる。熱にうかされた夢見るような色が、薄茶の虹彩を染め上げている。
 その目がみずからの下肢に向き、驚いたように見開かれる。そして。
「んっ……」
 おれの指先は、どくん、という脈動まで感じ取った。先の丸みをつつんでいたおれの手のなかに、ぬるつく体液が吐き出される。
 どうしてそんなことをしてしまったのか、自分でもよくわからない。だけど遠坂の顔を見ていたら、知らないあいだに手をのばしていた。
 ゆっくりと手を引き寄せる。おれの、まだうっすらとやけどの残る手は、白くにごったもので濡れていた。
 他人の精液なんて、はじめて、みた。だけどこれは……おれのことを好きだという男が、おれを思って、吐き出したものだ。
 不思議と嫌悪はわかなくて、しずかな昂揚だけがあった。
 ただ、遠坂のほうはそうもいかなかったらしい。おれの上からどくと、駆け出して、どこからかタオルをもって帰ってきた。……下半身丸出しのままで。とりあえずズボンを上げろとおれが言うよりはやく、手にタオルをかぶせてていねいに拭う。
 されるがままになりながら、おれは気まずげにうつむく遠坂に念を押した。
「謝るなよ」
 図星だったらしく、遠坂は開きかけていた口をぱくぱくさせた。喉元まで出てきていた言葉を言うに言えず、しどろもどろになる。
「じゃあ……えっと。ありがとう」
 そうして発したのは、そんな言葉だった。
 口のはしには、ごく淡くではあるが笑みがある。たったさっき目にしたような、頼りなくさみしい笑いではない。ちゃんとした……満足げな笑いだった。整った容姿も相まって、花が開くような、そんな表情。
 こいつはおれのことが好きなんだな、と思う。
 ぱっとしない人間になった。おれはほんとうに、たいしたことの人間だ。そんなおれをここまで好いてくれる人間が、これまでいただろうか? これから現れるだろうか?
 もしかしたら。おれは八年前、帰り道に通った校舎裏で、なにかとてもいい拾いものをしたのかもしれない。

 ……そんな感慨にふけっていたのも、束の間。おれはふと、手の中のタオルの柄に気がつく。あざやかな青地に白の星柄と、派手であまりみない柄である。
 けれどおれには見覚えがあった。
「遠坂」
 呼ぶと、びくんと肩が震えた。おれの声色の硬さを感じ取ったものらしいが、その反応はおれの確信を深める材料にしかならない。
「おれの気のせいだと嬉しいんだけどな、このタオル、おれが洗濯中になくしたのとよく似てるんだよ」
 いや、似てるなんてもんじゃない。実家から出て一人暮らしを始めるとき、母親が持たせてくれたタオルと同じ柄だ。「お母さんの趣味には合わないからあげる」と言われて渡されたのだ、派手な色柄だし覚えている。
 遠坂は目をそらしてうつむき、小声で言った。
「……風で飛ばされてきたから……つい」
 ドン引きである。
 コイツは正真正銘、ストーカーだ。わかっちゃいたけれど改めて。ちょっと感動したおれが、ばかだった。
 だけどどうしてだろう。目の前でしょんぼりしている、おれよりはるかに背の高い男が、いまは前とちがうふうに見える。これもなにかの刷り込みなのだろうか。
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