01 : eight years ago

 おれは邪悪な人間ではないが善良な人間でもない。だからあいつを助けたのは正義感なんかではなくて、ただ、なりゆきだった。
 遠坂日羽。女子みたいな細っこいみためのうえ、運動音痴で弱っちいので、「ひわ」という名前をもじって「ひよわ」とか呼ばれていることがある。その日は六時間目の学活でドッジボールをしたのだけれど、遠坂がへまをしたので同じチームの三輪が怒っていた。三輪は体が大きくて乱暴者。悪ガキってやつだ。
 おれはいつもどおり、裏門から学校を出ようとしていた。そのほうが家に近いのだ。プール脇の細い道は舗装もされておらず、枯れた夏草が折り重なって足を踏み出すたびにがさがさと鳴る。ここを抜けて校舎の角を曲がれば裏門だった。ところがこの日は、少しばかり事情が違ったのである。
 角を曲がると、道はふさがれていた。数人の男子と、壁際に追い詰められたひとりの男子によって。三輪とその取り巻き、それから遠坂だった。
「おい、ひよわ、わかってんのかよ。おまえのせいでさっきのドッジ、負けたんだぞ」
 なるほど三輪は、それで制裁を加えることにしたらしい。……制裁だなんていうとさもそれが正当なことのように聞こえるから、ふさわしくないか。一対三で寄ってたかって、これは、いじめだ。
 三輪はしょっちゅう遠坂に絡んでいたけれど、まさかここまでするとは思っていなかった。驚きのあまりその場に立ち尽くしているあいだにも、三輪の言葉は続いている。遠坂は黙って壁に背をこすりつけていた。顔は見えないが、長い前髪が不安げに揺れている。
「ここまで言ってわからないなら、身を持ってお勉強しないとなあ?」
 と、三輪が下卑た笑いを漏らした。そこに剣呑なものを感じたときには、取り巻きのひとりがボールを三輪に手渡している。
「うまく避けれるように、練習に付き合ってやるよ」
 うまく避けるもなにも、その至近距離じゃどんな達人にだって難しいに決まっている。ボールは授業で使ったやわらかいものではなくバスケットボールだ。当たったら相当痛い。
 まずい。どうしよう。そんな思いでいっぱいになったおれの口からもれたのは、
「あっ」
 そんな、まぬけな声だった。
 腕を振りかぶっていた三輪が、おれを見つけた。邪魔が入ったとばかりに顔が歪む。
「仁奈川。なんだよ」
「え。えっと、いや、なにかってほどなにかあるわけでは。ただ、通してほしいんだよね、帰り道だから」
「別の道通れよ」
「近道なんだ。今日、父さんの誕生日でさあ。早く帰ってこいって言われてんだ」
 三輪が眉間にしわを寄せる。言ってしまってから思い出した。そういえば、うちの父さん、三輪の父親の上司なんだったか。
「……告げ口する気か」
 低く問われる。鋭い眼光がまるで蛇みたいで、おれはおののいた。
「へ? いや、そんな」
 そういうわけではないんだけど、とまごついているおれを、三輪はしばらく睨みつけていた。けれどやがて、ひとつ舌打ちして踵を返す。そのまま取り巻きを引き連れて歩きだして、姿が見えなくなった。
 ほっと胸を撫で下ろす。三輪、あれで意外と気が小さいらしい。そのおかげで助かった。
 はああ、と大きく息をついていると、視線を感じる。見れば、遠坂がじっとおれを見ていた。ずるずるとその場に座り込むから、どこか痛いのかと慌ててしまう。
「ほ、保健室とか、行くか?」
「……へいき……け、怪我はしてないから」
 弱々しい返答が返る。うつむくと、遠坂の表情は前髪に隠されて窺えなくなる。なまじろい肌をした少年だった。校舎の影の暗がりのなかでは、体つきもあいまってゆうれいのようにたよりなくみえる。
「……行かなくて、いいの」
「へ?」
「お父さんの誕生日だって」
 早く帰ってこいと言われていたのはほんとうだった。母親に口を酸っぱくされていたから、あまり遅くなると叱られる。とはいえこのまま遠坂を置いていくのも気が引けた。
「だ、大丈夫、だから……」
 上目遣いでうながされる。行け、と。おれは少し迷ったけれど、おずおずとその場を離れた。
 道を抜けようとしたら、後ろから声がかかった。
「に、仁奈川」
 振り返ると、立ち上がった遠坂がうつむきがちにこちらを見ていた。弱々しい声が、それでもはっきりと告げる。
「ありがとう」

 遠坂とまともに話したのは、それが最初で最後だった。というのも、あいつはその後まもなく引っ越してしまったからだ。
 次に再会したのは八年の歳月が経過したのちだった。
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